高校の教師時代
宮沢賢治は、先生になることを進められ先生になることを決心した。その賢治の教えていた学校は、先生が、4,5人しかいないとても小さな学校で、賢治は、数学、英語、農業の3つを教えていました。毎日楽しい日々が続きました。 ∇年表∇
1921年 大正10年 賢治25歳
☆一月、父や母に黙って上京しました。本郷にせまい部屋を借りて昼は筆耕や校正などの仕事をして働き夜は時々町にでて仏の教えを人々に説きました。この間に多くの童話を書きました。
☆九月、妹のトシ子がまた病気になったので花巻へ帰り、 「月夜の電信柱」などを書きました。
☆十二月、岩手県ひえぬき郡立ひえぬき農学校の、先生になった。
1922年 大正10年 賢治26歳
☆十一月、妹トシ子が病気のためなくなりました。
1923年 大正11年 賢治27歳
☆八月、北海道に旅行へ行きました。
1926年 大正15年 賢治30歳
☆三月、賢治は、先生をやめました。賢治は、生徒達に、『みなさん、学校を辞めたら、ひゃくしょうになって下さい。村をだいじにして下さい。』と言っていたそうです。生徒達はそれを無視して、村から出て会社に勤める生徒が多かったのです。その生で、村の人口も、少なくなっていた。賢治は、『教室でえらそうなことばかり行っていてもダメだ、このままでは、本当のひゃくしょうの暮らしも苦しみも楽しみも、わかるはずがないやっぱり、自分がまずひゃくしょうにならなければ』と、思い学校の先生をやめた。ひゃくしょうになって、だれの世話もうけずに一人で生活していくことに、決めました。じすい生活を、しながら農家の人々に、稲の作り方や、肥料について教えました。
感想
あすみ なんだかすごいなと思った。すごいまじめな人だ。生徒が百姓にならないから自分がなるなんて私だったらしようと思ってもできないと思う。
やまなしでの感想は、おかしな言葉ばかり使っている。最初「かぷかぷ」とか何?っておもったけど授業をしていると何となくわかってきた。五月、十二月で思ったことは、五月はなんだかこわい死んだ殺されたよっとか、カワセミとか危険な感じがする。
十二月はカニの子どもが少し成長してたくましくなったような・・・あときれいな言葉がたくさんある。
やえ 宮沢賢治は、変わっている人だと思った。自分が百姓になってももし、村の人がでていったら、自分が百姓になった意味がないのに、すごい人生の判断だと思った。
ゆうこ けんじが、どうしてきょうしをやめたかがわかってよかった。賢治の書いた話と、賢治の人生には、深い関係があることがありそう。すごく不思議な人生だった・・・
かおり 自分から百姓になった(おてほんになって)のが、よかったと思う。けんじは、すごく変な人だなと思った。けど、いいさくひんをかいていいるとおもった。
わからない言葉
筆耕→写字などによって報酬を得ること。また、その人。「―料」 〓文筆により生計をたてること。 →―‐けんでん【筆耕硯田】
本郷→東京都文京区の一地区。もと東 京市三五区の一。山の手住宅地。東京大学がある。
校正→〓文字の誤りをくらべ正すこと。 〓校正刷を原稿と引き合せて、 文字の誤りや不備を調べ正すこと。「厳密な―」
百姓→(天皇が宝とされる意とも、大 御田族カラ(天皇治下の農民)の意ともいう) 天皇の人民。国民。 みたみ。おおむたから。おおん だから。推古紀「百姓(オオミタカラ) 礼(イヤビ)有るときは、国家(アメノ シタ)自らに治まる」